それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。
アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、